武蔵野美術大学市ヶ谷キャンパスにコワーキングスペース「Ma」が開設されたのは、2023年6月のこと。「学校と社会の間」をコンセプトに、現在は本学卒業生を含むクリエイターや起業家が入居しています
そして2026年、Maで新しい創業支援プログラムが始まります。「自由研究的ビジネスのつくりかた」と名付けられたこのプログラムは、一般的な“起業塾”とは異なり、自分自身の思いにじっくり向き合い、価値を探し続ける時間を大切にするものです。今回は、このプログラムを企画した3名が、企画の背景や考えについて語り合いました。
●酒井博基/d-land代表、武蔵野美術大学実験区プロデューサー
●織戸龍也/建築家・暮らし探求家、株式会社岩淵家守舎 代表取締役
●河野奈保子/Ma コミュニケーター、プロジェクトデザイナー
「自由研究的ビジネス」が生まれるまで
酒井:まずは、Maで創業支援プログラムを始めることになった背景についてあらためて振り返ってみましょうか。
河野:本業の仕事をこなしながら新しいことに挑戦したい方や、大学院を卒業してすぐに起業した方など、Maにはさまざまなフェーズの方が入居しています。多くの方が、自分の仕事をどのようにつくっていくか試行錯誤しています。
「クリエイターが自分自身でゼロから何かを始めることをサポートしたい」という想いは、Maを立ち上げた当初からの目標でもあります。その実現のため、東京都の支援も受けながら創業支援プログラムを始めることにしました。
織戸:美大の卒業生の中には、自分で事業を始めて会社を立ち上げる人や副業をしながら作家活動をする人など、自由な形で社会に出ていく人が多くいます。そこで、美大ならではの方法で創業をサポートできないかと考えました。
酒井:ムサビがこれまで大切にしてきたことに通じる、まったく新しい形のプログラムを作りたいと思い、「自由研究的ビジネスのつくりかた」という名前をつけました。プログラムの発案のきっかけは、河野さんの「みんなクライアントワークに疲弊しているよね」というひと言でしたよね。

河野:入居者の方の話を聞いていると、クライアントワークに少し疲れてしまったり、頭の中にある「やりたいこと」が自分自身のどんな願いや体験に由来するものかうまく言葉にできなかったり、またはどう人に伝えていいかわからないという声をよく耳にします。
これまで出会った起業家やNPOの方にも、自分の願いや体験をうまく言葉にできず悩み、それでも仕事や活動に取り組む方がたくさんいました。自分の声にじっくり耳を傾ける時間は、人生にとってとても大切だと思います。そういった時間を持ちながら、今の働き方や生き方と向き合うきっかけになればと考えています。
酒井:卒業制作展を見ているとそういう“わからなさ”を引き受けているという姿勢がとても尊いと感じます。その感覚をビジネスにも重ね合わせ、今回のプログラムに込めました。
美大での経験が、今につながる
河野:私はムサビの視覚伝達デザイン学科の出身です。学生時代、授業で先生から「もっと対象そのものとしっかり向き合いなさい」と言われたことが今も心に残っています。作品づくりの際は自分が関心を持ったものをじっくり観察し形にするのですが、思い描いたものと違うことも多く、何度も試行錯誤を重ねました。その経験が社会に出てからの仕事にも役立っていると実感しています。
酒井:河野さんは美大での試行錯誤が今につながっているとのことですが、織戸さんはいかがでしょうか。学生時代から関心を持っているテーマや、今あらためて意識していることはありますか?
織戸:僕は建築設計事務所でキャリアを始め、その後リノベーションや店舗設計、さらに地域コミュニティに関わりながら活動してきました。いろいろな経験が結果的に少しずつつながってきたと、今は強く感じます。振り返ると、日常的に変化し続けていきたいという思いは一貫して持っていたように思います。

酒井:僕はムサビの建築学科出身。実際に手を動かしてつくってみることでしか次の問いが生まれないし、行動して初めてわからないことに気づく、という感覚は美大の中で自然と身につきました。
こうした経験を通じて、「自由研究的ビジネス」という考え方に到達したんです。たとえ研究テーマ自体が直接収益につながらなくても、これまでのクライアントワークやほかの活動と組み合わせることで新たな収益源をつくったり、研究を通して得たスキルを活かして関連分野で事業を起こしたりできることを実感しています。わからなさを抱えながら意味を問い続けることが、新しい価値を生むことにもつながるのではないかと考えています。Maが、わからなさを受け入れている人たちがつながる場になればおもしろいですね。
形にすることで、価値に気づく
織戸:話を聞いていて感じたのは、何かを形にすることで、人はその形を通して価値や価値観のすり合わせができるということです。
酒井:「形にしてみて、思考だけでは見えてこなかった価値に初めて気づく」というのは大切ですよね。僕は建築学科でずっと模型をつくっていましたが、完成した空間に実際に身を置いてみると、シミュレーションとは異なる予想外の発見がある。それがとてもおもしろい。形にすることで自分自身も価値に気づけます。逆に言えば、価値を先に考えて形にしようとすると苦しくなる。これがいわゆる、ビジネスアイデアを生み出そうとするときの難しさかもしれません。
河野:自由研究と同じように、外に出した瞬間から自分だけのものではなくなる。あの不思議な感覚をみなさんにも体験してほしいですよね。

酒井:「価値を先に考えて形にする」のではなく、「形にすることで価値に気づく」という順序の違いが、一般的な起業塾や創業支援プログラムとの大きな違いです。プロジェクトとして形にし、社会に発表することで、自分が気づいていなかった価値を発見できる可能性があります。その価値を言葉で表現できる段階になれば、起業にもつながるし、ライフワークとして続ける動機になる場合もあると思います。
僕たちはこの「自由研究的ビジネス」を、単なる起業塾や創業支援プログラムとは捉えていません。起業塾と呼ぶと参加する方との誤解が生まれそうなので、その呼び方は避けたいですよね。
河野:そうですね。人生で大切なことを見つけるのは簡単ではありませんが、むしろ「気楽にやりたい」と思うことから始めてもかまいません。自分のペースでさまざまなフェーズの方に参加してもらえたらうれしいです。

主語を「自分」に戻すための3ヶ月間
酒井:プログラムを進める3ヶ月間は、自分の仕事において主語を「自分」に戻すリハビリ期間だと考えてほしいです。クライアントワークを否定しているわけではなく、自分自身で決めること、そして主語を自分自身に戻すことの大切さを伝えたいですね。
河野:「私はこうしたい」という思いは、クライアントワークでも必ず伝えられるはずです。自分を主語にして話すことは、早く始めたほうがいい。もし言いづらい場合や悩みがある場合は、まずその気持ちを整理することが大切なのではないでしょうか。
織戸:自分自身を主語にして対話する方法を今のうちに身につけておけば、今後同じ壁に直面しても乗り越えやすくなります。本当にやりたいことと今やっていることが違っていても、実はすべてがつながっていた、というケースも多いですよね。それをしっかり見つめることが、自分のモチベーションを保つうえで重要だと思います。
酒井:このプログラムは、一般的なインキュベーションプログラムが提供するようなメンタリングとは違います。僕たちはビジネスのノウハウをロジカルにアドバイスするタイプのメンターではありません。ビジネスの中で重要だけれど、まだ広く重視されていないテーマにも挑戦していきたいと考えています。

河野:モヤモヤした気持ちの段階からでも、気軽に参加してもらえたらと思っています。
酒井:今、ビジネスの世界では「課題解決」という言葉がよく使われていますが、実際には「自分にとって何が問題なのか」さえ意識できていないケースも多いです。でも、そこにこそ新しい価値が眠っています。「自分はこれを問題だと感じていたんだ」と気づいたとき、本当に向き合うべき課題が見えてきます。
織戸:自分ではうまく言葉にできなくても、周囲の人がそれを感じ取ってまとめてくれることもあります。僕たちがサポートするのもその一つですが、同期の仲間とのやり取りや発言を重ねる中で、自分自身の言葉になっていく。そのプロセスが非常に大切だと思います。
酒井:僕たちの役割は、ビジネスの正解を教えることではなく、相手が心で感じていることを丁寧にすくいあげること。最終的には、参加してよかったと感じられるプログラムにしていきたいです。自分で見つけたテーマを形にして社会に発信し、プロジェクトも人も成長していく場となることを目指しています。
